YOKOGAWA 100th Anniversary 日本では、欧米での発展を追うかたちで1880年代から電灯が使われ始めた。1912年には東京市のほぼ全域に電灯が普及、鉄道の電化も始まったが、計器類は輸入品であり、1914年の第1次世界大戦勃発により欧米からの調達は厳しくなった。同時に、電力使用料を従来の定額制から従量制に移行する動きもあり、電気計器の国産化は産業界の重要事のひとつとなっていた。 電気計器研究所は、工場操業の準備を整えた1916年、横河電機製作所に改称した。需要の増加が見込まれる積算電力計の量産研究を行いつつ、電気を安全かつ精密に管理するために不可欠な産業用の指示電気計器の開発も進めた。1917年には試作にこぎつけ、大学や研究所の好評を得て、携帯用および配電盤用の交流・直流電流・電圧計などを発売した。この時、国内では業界初といわれる製品カタログを作成した。 経営陣自ら納入先に足を運んで評価・意見を求める姿勢と、優れた製品を追求する妥協のない努力が、横河一郎や青木晋のかつての勤務先、逓信省電気試験所の協力なども引き寄せ、横河製品への評価は次第に高まっていく。1917年には日本の工場動力の電化率が50パーセントを超え、起業のタイミングも絶妙であった。指示電気計器標準規定の制定において青木が調査委員会の幹事および委員を委嘱されたことも、横河電機の技術が認められたことを示すものであった。 こうした状況で、1918年、バラックの社屋のわきに木造2階建ての本格的な工場が建設された。優れた製品を作ることを最優先にするという基本方針が徹底し、よく整備された工場であった。お客様の要望があればまだ製品化していないものでも注文を取り開発していくという姿勢であったから、急速に技術を高めていくことができたし、1919年には商社を通じて初めての海外輸出も行うことができた。 同年には社員も110人に増加し、社員向けの技術講習会を開くなど積極的な人財育成を行った。その結果、次々に新しい研究の成果に結び付いただけでなく、世の中に先行した作業の分業化と量産化、計器の小型化と高付加価値化が実現し、経営の基盤固めをすることができた。 こうして1920年には製品数においても社員数においても早くも国内トップメーカーとなり、同年、近代的経営への脱皮を目的に株式会社化した。1923年の関東大震災は、日本の工場動力の電気への切り替えを促し、電気料金の従量制移行も本格的に始まった。当社の積算電力計は価格面で苦戦し生産を中止したが、代わりに大ヒットしたのが国産初の携帯用電磁オシログラフ(1924年完成)である。輸入品の半額ながら独自の改良を加えた同製品は、1926年に東京上野で開催された平和博覧会で計測器業界初の名誉賞を獲得するなどして“技術の横河”の声価を高め、戦後のブラウン管式オシログラフ登場まで主要な収益源のひとつとなった。1926年末に昭和が始まると、日本は震災の後遺症などから相次ぐ恐慌に見舞われるが、当社はオシログラフの拡販に加え、直流積算電流計、携帯用高周波電流計など、技術力や長年の研究開発に基づく製品群を発売してこれを乗り切った。とくに1929年に試作に成功したカソードレイ(冷陰極線)・オシログラフは、マイクロ秒レベルの電気変化を捉えることができるもので、各地の学者や電気試験所から教示を請いつつ苦心のうえ完成、一時は市場をほぼ独占した。 こうして認知度が上がるにつれてブランドを明確化するため商標が必要になり、1927年にはYEW(Yokogawa Electric Worksの略)を商標登録した。1930年に、カソードレイ・オシログラフをはじめとする精密測定器をリエージュ産業科学万国博覧会へ出品し名誉賞を受賞するなど当社の製品は評価を高め、海外でもYEWが知られるようになった。国産電気計器の量産でトップメーカーへ初期の代表製品「オシログラフ」の発売
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