39YOKOGAWA 100th Anniversary柱を失う悲運に見舞われる。後任となった東とうごうやすし郷安社長は、大企業での経験から職制整備や事務組織改編に取り組んだが、1年半後には社長の実務を横よこがわ河時ときすけ介(民輔の長男)に引き継ぎ、1940年に時介が社長に就任する。一方、航空機用の計器・点火栓の受注は激増して生産量の6割近くを占めたが、資材の入手難、労働力不足も進行し、価格統制下での増産もあって採算は悪化した。1941年12月、日本は米英と開戦し、翌年には電気機械統制会が発足して、電気機器メーカーを一元的に管理し、生産、配給、資材、要員などまでが強力に統制されるようになった。当社は国の要請に応え、1942年から社外資本を導入しつつ吉祥寺、小金井2工場の拡張や、1943年の大久保(東京)、川越(埼玉)、辻堂(神奈川)の3工場の新設を行った。技術開発の努力は継続し、また工業用計器の生産も細々と続いてはいたが、航空機関連の生産が中心となっていた。正規社員は約1万2,000人、動員学徒を含めると1万6,000人まで膨らみ、1944年度売上高は7,500万円を超えたが、借入金も7,000万円近くにまで急増しており、戦時経営のゆがみがそのまま表れていた。1945年に入ると政府から疎開命令が出され、当社も富士山麓など東京から遠い場所に建物を借りて引っ越しせざるを得なかった。1945年6月、創業者の横河民輔が80歳で没し、2カ月を経ずして日本は終戦を迎え、当社は新たな時代を迎える。経営陣は1945年9月に、社員を1,200人に削減し、400人を新規採用して吉祥寺、小金井の2工場で再出発する再建案を決めた。多くの会社が本来の事業ではない鍋釜のような日用品まで作って糊ここう口をしのぐなか、「二流品はつくらぬ」姿勢を堅持し、疎開工場からの設備、資材などを工場に戻していった。また、戦後の経済民主化に伴う労働組合結成に対してもできる限り誠実に対応、労使で協力し、1946年1月には労働組合の結成に至った。 しかし、終戦後は毎月200万円の赤字を出し、社員削減に伴う退職金、疎開させた資材を戻す費用なども発生した。さらに戦時補償の打ち切りで政府への売掛金のほぼ4分の3が切り捨てられ、再建途上の当社にとって痛烈な打撃になったが、当社は、この危機に売掛金回収促進や支出削減といった経営努力と辻堂工場の売却などで乗り切っていった。 このように危機を乗り越えた当社は1946年4月には計測器の生産を再開し、「産業のマザーツールである計測器を作り続けることにより、日本産業の復興の歯車をまわそう」という呼び掛けに社員も奮い立ち、労働組合も生産復興運動を自ら展開して協力した。1947年には、部品の絞り込みと標準化を進めて効率と収益性を高める一方、銀座松坂屋で「横河の電気計測器展」を開催、ようやく戦後の歩みが本格化した。10分の1の規模で再出発戦争下の横河電機雑誌広告(日本ラヂオ協会『ラヂオの日本』1928年10月号)東郷 安横河 時介電気式差圧流量計
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