43YOKOGAWA 100th Anniversary工場を東京都八王子市に建設、HP社から技術・部品を導入し、高周波・マイクロ波測定器の国産化を進めることとなり、当社からは高周波測定器の一部の生産を移管した。このほか当社は、分析機器で三鷹工業株式会社、温度調節計で株式会社千野製作所(現株式会社チノー)、計装工事で旭興産株式会社、記録紙で北辰電機製作所、電子計算機でIBMなど内外の企業と提携して事業を展開した。 YHPの設立後、当社は高周波測定器を除く一般測定器および工業計器・計装システムを主力に成長を図ることとなった。1965年の証券不況で、当社およびYHPの業績は一時後退するが、1966年に就任した友ともた田三みやじ八二社長は機種の整理や事務処理の革新などで体質強化を図った。いざなぎ景気(1965年11月~1970年7月)といわれた好況期への突入とも重なり業況は再び好転した。 製品面では、1962年のCCSに引き続いて、1966年に国内初のCPU二重化DDC(Direct Digital Control) システム「YODIC-500」、全電子式制御装置EBS、1970年に完全二重化のDDCシステム「YODIC-600」が送り出され、後に「CENTUM」として結実する高信頼化技術の基礎が確立した。 次にプロセス用分析機器の分野が立ち上がった。まず プロセスガスクロマトグラフの最初の製品にはERを独自の付加価値として組み込んで発売(1966年)、その後着実な技術開発で1980年代には国内市場で90パーセントもの シェアを獲得するに至った。さらに製紙工場向けB/M計 (坪量・水分計、1969年)、後に米国市場開拓の先兵となった石油硫黄計(1970年)などが続々と開発、発売された。 また営業面でも東京支社を都心部の八重洲に移転し、 お客様との連携を強めた。社内ではコンピュータ(IBM360)導入で一気に事務効率が上がり、新鋭設備の導入、QC活動のスタートなどで生産性向上の取り組みも進められた。 しかし、日本経済は1970年の大阪万国博覧会以降、徐々に後退し、1971年のドルショックで当社も含め製造業は苦境に陥った。同年、松まつい井憲としのり紀が社長に就任するが、この年度の当社の売上は競合を下回るものと なった。こうした状況を挽回すべく、1972年に、舶用機器に関する東京計器株式会社との販売提携、気象機器メーカー、中浅測器株式会社の買収などを実施した。 また、本社工場が市街地に囲 まれており長期的には生産能力が限界に達するとの予測から、その対策として山梨県甲府市に工場用地を取得した。 しかし、同工場着工の直前、1973年10月に第1次オイルショックが起こり、石油依存の大量生産・大量消費社会となっていた先進諸国は軒並み不況に陥る。1974年7月に完成した甲府工場は戦後初のマイナス成長下での船出を余儀なくされた。日本の高度成長が終焉えんし、当社は新たな成長を模索することとなる。友田 三八二高度成長の終焉えんYODIC-500甲府工場ガスクロマトグラフ石油硫黄計B/M計松井 憲紀
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