100周年記念誌「時代を超えて-Always Reaching Higher-」
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中国・西安での合弁会社設立1982年に買収したオランダの企業ElectrofactYokogawa Corporation of AmericaYokogawa KeonicsYokogawa Electric Asia48 一方、中国においては1972年の国交正常化をきっかけに長年の友好関係をベースにした事業展開が発展し、1979年には西安の国営企業に当社の工業計器技術を移転する契約を締結、後に合弁会社の設立に発展した。さらに1980年代からは重慶でも技術移転や合弁会社設立が行われた。 新たな市場への参入にあたって、当社は競争力ある独自技術を用いた製品を海外市場へ投入する戦略をとった。 米国ではER、石油硫黄計が好評を博し、米国に生産拠点を新設して投入した渦流量計も順調に売上高を伸ばした。また欧州拠点と共同で開発した新しいpH計も世界中でヒット商品になり当社の知名度も徐々に向上した。 しかし、このような前例のない戦略を成功させるためには全社員が共通の具体的な指針を共有する必要があった。当社は1973年10月に「海外拠点運営の考え方」を社内報で全社員に明示し、その理解と忠実な実践を求めた。そこでは相手国の発展を図り、ともに利益を享受することを目的とするという「互恵の精神」が示されており、現地の人財の教育と管理職登用による現地化を進めること、品質確保や付加価値の向上のため部品加工から完成までの一貫生産を行い世界中に製品を供給できる体制を確立するなどが明記されていた。派遣された日本人も、支援する日本の関係者も、多くの苦労を乗り越え、この精神を忠実に実践し、現地社員やお客様からの信頼を得て、各拠点の自立が着実に進んだ。 そして1970年代末期より、海外市場において本格的な制御事業への参入を開始する。すなわち高付加価値のDCSエンジニアリング事業の海外展開を開始したのである。しかし制御事業でお客様の信頼を得るには、現地で優秀な人財をそろえ、販売、エンジニアリング、アフターサービスを完結できる体制を整え、かつ本社からのバックアップが受けられる仕組みを築くことが出発点であり、そのための大きな投資が参入障壁となっていた。 そこで当社はまず1986年に、シンガポールに最初の エンジニアリング子会社を設立、東南アジア、南アジア地域で事業を広げ、徐々にほかの地域にも広げていく進め方を採った。 この時期、日本のエンジニアリング会社などが、低迷する国内市場を背景に海外での事業展開を加速させており、これと連動する形でのビジネスも増加した。さらに北辰電機との合併で、海外に強い人財が一気に増えたことと、円高を追い風にして海外展開を加速させていった。1988年に社長に就任した山やまなか中卓たかしもこの路線を踏襲し海外体制の強化を図るとともに、国内の営業体制の強化を進めた。 1986年末からの好景気は持続していたが、日本経済は1990年初頭から株価の暴落が始まり、続いて地価、そして実体経済へとバブル崩壊の影響が及んで、「失われた20年」とも称される長いトンネルに突入した。YOKOGAWA’s History —— Chapter 3山中 卓

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